いじめる側の理不尽さには、どうしても目を背けられないものがある。私自身、いじめられた経験があるからこそ、その矛盾が際立つ。
例えば、彼らは平気で他人を傷つけ、嘲笑い、踏みつけにする。なのに、自分が同じ目に遭うと、途端に激昂し、まるで非人間的な扱いを受けたかのように喚き立てる。その怒りようは尋常じゃない。
その光景を私は何度も見てきた・・・。
ここで疑問が湧く。もしそんな強い怒りを感じるほど傷つくのが嫌なら、なぜ自分は平然と他人に同じことをできるのか。その理不尽さが頭をよぎると、思考が停止するほ悶々としてしまう。自分が与えた痛みを、自分が受ける側に回った途端に許せなくなるなんて、あまりにも都合が良すぎるではないか。この理不尽さが、いじめをする輩の典型的な特徴だと思う。
私はどんなに罵られても、殴られても、痛みや苦しみを味わっても、相手にやり返すことはしなかった。なぜなら、その痛みを想像でき、そして知っているからだ。怖さ等を感じる前に、相手を同じ目に遭わせるなんて、できやしなかった。
彼らはその想像力すら持ち合わせていないのだろうか、自分の行為がどれだけ他人を傷つけるか、考えないのか、考えられないのかもしれない。
例えば、可愛いキャラクターを形どったケーキ等にナイフを入れることに躊躇いを感じることと同じく、理論的に思うというよりも、私にとっては本能的に感じるものの方が大きかった。「男でしょ」、「いくじなし」とよく見下される事が多かったが、当時、自分でその言葉を理解、納得する事は出来なかった。
この文章自体が、ある意味でその「反撃」ではないかと言われれば、返す言葉もない。だが、いじめる人というのは、反抗的で自己中心的な人間であり、人を踏み台にして自分を優位に立たせたいがための行為だと感じてしまう。
これはなにも子どもの世界だけに限らず、大人になっても存在している。何故なら、全世界で紛争や略奪、身近な社会でも、権力による保身や地位の奪い合いによる争いが、今もなお絶えず行われている嘆かわしい現実があるからだ。
そもそも人間という生き物は矛盾に満ちている。自分たちの行為を正当化する一方で、他の生命に対しては平気で残酷になれる。動物に対しては、ペットとして愛情を注ぐ一方で、食料として利用する冷徹さを持つ鬼畜な性質を持つ。人間は、自分に都合のいい論理を構築する天才であると同時に、その都合のよさが時に悲劇を生む残念ないきものだ。
まぁ、そこまで考えてしまうのであれば、「あんたはもう出家でもしなはれ」レベルなんだろうけど。
ただ一つ言えるのは、技術や文明が進化しても、人類何千年の歴史上でも、人間の思考は何一つ進化していないという事だ。
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